お芝居の世界に入った大きな理由は、人前で話すことができないのを克服したかったから。
話そうとすると、喉から声が出なくなっていつも涙が流れた。
自分を表現することに対して、からだに沢山の抵抗があったと思う。
お芝居の世界に入ったことは、
そのことにトライすること自体が最も苦しいことであると同時に、私の生命が生きようとするそのものの行動であったと思う。
お芝居を初めてからは、
魂と声のずれが苦しかった。
声にだした瞬間に何かとてつもなく私の本当との大きな「ずれ」を感じた。
どうしたらいいかわからないまま、トライするしかなかった。
そして、踊りに出会った。
声を出さなくていい分、嘘にならない感触、
どこか大きく楽になった。
踊りを学んでいくうちに体の中の流れというものが気になりだした。
流れる、流れない、通行止め、塊、流れはじめる、流れる量、流れの太さ・細さ、流れ道、、、、。
それらが、生物の存在あり方(呼吸)と、心の特徴、そして培われた考え方とも密接に結びついていることがわかった。
どこを糸口にしても、何かが変化すればすべて影響を請け合い変容するのだ。
ということはその1つの生命に大きく変化をもたらすということ。
私にとってこの最も興味をそそられる学びは、「人」そのものなのだ。
流れるを追求していき、私という生物の場合、
流れる=気持ちがいい
ということが実感としてわかった。
逆に、
日常の中にも気持ちいいを追求すれば流れることもわかった。
流れるは、楽も同時にもたらした。
「らくであり、たのしい」ということ。
そして、それと並行してずれのスタートであった「声」の実験も適当にしていた。
すると、声もからだと全く同じことがおこっていった。
声はからだなのだ。
最もずれを感じた声の変化はとてもわかりやすい。
やっと最近その「ずれ」がなくなりつつあると感じる。
少しずつだけど、歩いてきてよかったと思う。
最近、
あんなに魂とからだにあった「ずれ」は、神様のギフトであると確信した。
「気持ちいい・楽しい」を、
その生命のそのままの流れを、
さらに味わい追求したい。
私が私でよかった。
やっとバリ舞踊の生命の祝福の意味がわかってきたのかもしれない。
1つ1つ、生命には祈りという魂がある。
魂が何かを約束してきて、その命の使命がある。
そのすべての生命がそのままに、
愛という流れを受け取りますよう。
よどみなく「からだ」を流れていきますよう。
その道のすべてを祝福します。
書き終わって、なんでこんなことつらつら書いたんだろうと思いつつ。
私のからだに流れてきて書いているんだと思うのです✨